irogattoのブログ

過去、現在(イマ)

人の役に立つ、人を支える、力になりたい

次にあるのは、とある高校生が書いた詩。Twitterで流れてきたのを偶然に目にした。

http://www.inisi.myswan.ne.jp/club/literary/index.html

 

何が起きたのか知っているから簡単な言葉がとても重い。

詩の前に書かれている文章から滲みだす書き手の想い。

想像しきれない、大きなプレッシャーと虚無感と。

 

分からなくなる。励ましが重荷になりうる事。力になるとは。支えるとは。

 

とにかく読んでて私が真っ先に感じたのは、自分の存在が社会に於いてまだ何の役にも立っていないことだ。一筋の涙を流して焦りを感じた。自分のことばかり且つおこがましいことを考えている。

けれど今また目標が霞んでいたところで、気持ち新たにできる努力をしよう。

母の日

電話した。

私から電話することなど滅多にないが、今日だけはしておいた。家族会議の最中でタイミングは悪かったが、少なからず喜ばれた気はしたので良しとする。

 

直前まで何かするか迷っていた。母というより他人にしか感じられない時がある。どうでもいいと思う時。何故だろう。血は繋がっているのに、眼鏡を掛ければ顔はそっくりなのに。自分の中に実母の面影を見るのが嫌でたまらない時もある。

 

小学生の時から高3まで毎年母の日には花を贈っていた。上京してきてから2年は、たしか電話を。次の年はどうしたか思い出せない。

2年前は作詞作曲した歌を贈った。行動的になって元気になってた時だったから、長く音信不通でいた事に申し訳ないと思った。その時の気持ちを感謝の言葉を込めながら書き出して、ちゃちい作曲をして、おもちゃシンセサイザーで度下手な演奏をしながら歌って、PCに録音して、CDに焼いて実家へ郵送した。

今思えば何故そのようなことをしたのか不思議でたまらない。当時は、こんなどうしようもない子どもなのに好き勝手させてもらえて有り難いと、確かに本気で感謝していたし、私の味方でいてほしいなどと思っていたが、今は全くそう思わないし、同じような気持ちにはなれない。むしろ当時の自分を気持ち悪いと思ってしまう。あの人に対しての考え思いは一変した。

去年の母の日はかろうじてメールを。

 

なんだ、反抗期か。なんて思われるのだろうか。今更?

 

 

 

これって5月病?

あっと言う間に5月半ば。なかなか記事を書く気になれず、ブログトップは時々開いてみるものの、やっぱやめようという繰り返し。

最近よく分からない弱音を吐いてみたが、即消した。ああいうのは残しておきたくない。衝動的なものであるし。本気の現在進行形文を見られるのは苦手。

と言いつつ誰かに見られる可能性のある場所に吐き出すのは、そういう状態になっていることを知ってもらいたいからだ。でも詳しくは知られたくない。エゴイスト。

 

今は部屋の扉を閉めて鍵をかけて誰にも見られず引きこもりたい

とにかく私が部屋にいる時は入ってこないで、という我が儘。部屋に入るなら、私が出かけて当分出入りしない時にどうぞって。

 

勝手な人間だし、口約束ばかりだし、無責任だし、そういう人間だから。改善しようと思うのも、思うだけであって実際に行動に移していないのだから、何も変わらない。移せよ馬鹿野郎。

 

最後に、5月病って言葉嫌いだ。中二病とかメンヘラとかもそういう言葉でラベル付けする感覚が嫌いだ。でも自分だって使ってる。そこがまた嫌いだ。

楽しめたことが何よりの糧

一昨日の朝は本当にだるかったが、時間が経つと徐々に元気に。

以前から友人と約束していた山登りにも、昨日は気分を上げて行くことができた。

実際は雨のために登山は断念したのだが、ふもとの方で贅沢な野外料理を味わったり、会話を弾ませながら夜のお散歩をしたり、地元の粋な大将が営む居酒屋で美味しいお酒と料理を楽しんできた。

本当に楽しめた。

それが何より嬉しい。

楽しいので美味しいお酒もより一層美味しく。結構飲んだ気がする。

おかげで今日は起きてからの気分がとってもいい。体も軽い。

 

元気をもらえたので、今やるべきことを進めよう。

不調の兆しでないことを願う

この2、3日何だかやる気がない。だらだら時間を過ごしてしまっている…。

切なくて泣きたいような、少し気分が落ち気味のようだ。

この前の疲れが今頃影響してきてるのか、春の陽気のせいなのか、生理のせいなのか(もう終わりかけだが)、頭ではあれしよう、これしよう、何なにしなきゃ…と考えるのにどうも出来ない。

ほぼ体をじっとさせてPCにひたすら向き合っている。それこそが良くないのだろう。

太陽の光を浴びて伸びをするだけでもだいぶ違う…はずだが、それだけで何とかなるもんでもない。

 

だるい。

久しぶりにそんな単語が思い浮かんだ。

やっぱり調子いいと感じる時期はそう長く続かないな。

電話に対する恐怖

一人暮らしをするようになってから電話に出るのがとても苦手になったような気がする。

とは言っても、ずっとではない。大丈夫な時期と、苦手な時期と、着信に対して恐怖を感じる時期とある。 

実家暮らしをしていた時は、家の電話が鳴ればすぐに出られた。自分から掛けることも何の問題も無かった。中3頃から携帯を持ち始め、そちらでも電話は普通にしていた。 

今ではまず知らない番号からかかってくると出られない。それは携帯でも家電でも。

 

先日、実家に帰っている間に家の電話が鳴った時、結構長くコール音が響いたが誰も出ないまま切れてしまった。書斎に居て手が離せなかった父がやってきて「何故出ないんだ!」とキレられたが、出られないんだと一言だけ返した。電話の音が鳴った瞬間に体が固まってしまうのだといちいち説明しても分かってもらえそうにないので。

その時は子機が目の前で鳴っていたのだが、近づけないので発信者の番号も見えなかった。

誰から、というのがはっきり分からない電話には出られない。しかも、確実に私とは無関係の人からの、父や母への電話だと予測できる。特に父関係の大学や業者からの連絡が多いことは、少しあの家にいれば分かる。普段居ない私が出て誰かと思われるのも嫌だ。今の私にとって実家の電話に出ることは他人の家の電話に出るようなものだ。 ただ受話器を取って相手の名前を訊いて、掛かってきた本人に繋げばいいのだが、そんな簡単なことが出来ない。

実家にいて私が受話器を取れたのはFAXの一回のみだった。

 

携帯でも着信すると、とても緊張する。この時間にこの人から掛かってくるという事が事前に分かっていればすんなり出られるのだが、誰からという表示が出ても予期せず掛かってきた時は画面を眺めながら硬直してしまう。それも発信者による。

まず家族からの場合は大抵出ない。連続して何度も掛かってきた時は、急を要する内容なのだと判断して出る場合もある。それ以外は留守電を聞くようにしている。

長らく関わっていない知人や友人からの連絡も、どういう要件か全く想像がつかない、あるいはこちらから音信不通になった関係の場合も怖くて出られない。メールも併せて来ていたら内容によっては自分の方から折り返し連絡は出来る。音信不通になった関係というのは、相手が嫌な人だからではない。ほぼ全て私自身が原因で、誰とも会いたくない誰とも関わりたくないという引きこもり状態になっていたからである。

毎日のようにやり取りをしていたり、近いうちに会ったりする人からは大丈夫だ。あと、自分にとって必要な連絡だと強く思えたら自分から発信できる。それも一回一回がとても緊張する。通話終了と共に胸をなで下ろす感覚。バイト先との連絡が最も緊張していたかもしれない。

以上が苦手な時期の様子。

 

着信音に恐怖を感じる時期は一切出られない。そういう時はバイブレーションが鳴るのも嫌なのでサイレントにして、何日も携帯を触らずに放置している。後で通知の表示だけは確認するのだが、留守電すら聞きたくない。

こういう状態になると、確実に引きこもり始める。引きこもる要因はまた別にあるのだが。

この時期、着信音を聞くと自分が責められるような、脅されているような、そういう気分になる。とても後ろめたい気持ち。自分の非を突きつけられているような感覚。

だから無音にする。見て見ぬフリをする。自分を守るために考えないようにする。

それはつまり…自分の中に解決出来ていない責任問題を抱えているということなのだと思う。

気持ちが前向きになって大丈夫になってくると、着信音に気付けるように家ではマナーモードを解除した状態にしておく。そうなるきっかけ、時期というのを未だにはっきりとは分かっていない。自分のことなのに。

 

5年前に一人暮らしを始めた時から家族からの電話にはほとんど出ていなかった気がする。特に実母と母方の祖母からの電話は避けていた。メールも最初は返せていたが、段々と返信するのが億劫になっていった。

そのうち家族だけでなく、同級生や先輩後輩からの連絡も避けがちになった。そうして自分で自分の周りを遠ざけて孤立するようになった。だけどまた周りと連絡取ったり関わろうという気になり、実際に元気そうに会ったりする。そしてまた孤立。それの繰り返し。最初は1人きりになる期間が1ヶ月とかだったのが、繰り返すうち段々と伸びて2ヶ月、3ヶ月になっていた。

1人の時間が長すぎると他人とどう喋って良いのか本当に分からなくなる。相手の様子を知るのに声色と言葉しか判断要素がない電話は不安になるのだ。表情や態度が見えないのが不安になるのだ。そして、私が上手く言葉が紡げないのだ。そういう自信の無さも通話することから遠ざけている。

現在持っている電話への苦手意識は、ほぼこの5年の間に作られてきたものだろう。

 

これからまた慣らしていきたいのだが、秋から冬にかけての時期がどうも具合が悪くなるらしく、また電話には出られなくなるかもしれない。