「後悔はない」という嘘
最近の私は49日も終わっていないのに不謹慎なことばかりしているのかもしれない。
だけど、また調子が悪くなってしまった時が怖いから心底楽しめる時は楽しむ。今が丁度その時だ。
ブログを休むと言って数日間は感情の揺れが激しかった。とても気持ちが高ぶって楽しい!…かと思えば、何をしようとしても気分が重くその場にしゃがみ込んで体を支えるように床に手をついてしまったり…涙が勝手に出てきたり。
後悔はない、などと強がりを言ってみても、もっと自分にも何か出来たんじゃないかという思いは拭えない。
何でもっと家族との絆を大事にしようとしなかったんだろう。何で逃げてしまったんだろう。何で…何で!…という思い。
今はまだ楽しい時間の隙間にそういう思いが隠れてる。
まだ弱い
人の心配する前に自分がつぶれそうになってるなんて…。
ネガティブ続いてるなぁ。
一昨年の冬に初めて聴いた曲。歌詞は沖縄の言葉で歌われていたから、どういう意味か分からなかったが、すごく心に響いた。そのあと原曲は60年代の歌と知って、元の歌詞も知ってから聴き直すと、涙が止まらなかった。
悲しくてやりきれない(ウチナーグチ・バージョン) / 上間綾乃 - YouTube
しばらくして、またこの曲聴きたいと思い探していたら、高音が最も綺麗だと思う歌手が歌っているのを見つけた。
KOKIA - 悲しくてやりきれない ‐ ニコニコ動画:GINZA
想いの行き場がない時に聴きたくなる。
いっぱい泣けば、そのあとスッキリする。
そりゃ他人かもしれないけど…
辛そうにしてると、私まで勝手に悲しくなってしまう人達がいる。
何とか元気になってもらいたいと思うし、無理して自分を痛め付けないでほしい。
本当勝手に私がそう感じてしまうだけ。胸が少し締めつけられるだけ。
ずっと将来への希望を持つことを躊躇ってきた人が、幸せを掴んだ姿を見れば本当に嬉しくなる。心から祝福したくなる。安堵の気持ちと幸福感が私の中にも溢れる。その幸せがずっと続けと願う。
また苦しみを感じてしまったら、その辛さを理解しようと努力してくれる人がその人の傍に居てくれればと祈る。
私では何の力にもなれない。それ以前に私が気を揉むのは余計なお世話。そうかもしれないけど、好きな人達の幸せを望むくらい、いいじゃないか。
阪神淡路大震災から19年
当時の私の年齢は3歳。もうすぐ4歳になる頃だった。
震源地からはかなり近い距離のところに住んでいたが、家の至る所にヒビが入っただけで済んだ。もちろん停電や断水など、しばらくインフラは失われたのだけども。
小さな私の頭の中はただ「怖い」ということしかなかった。
乳児期から3歳までをアメリカで過ごしていた私には地震は初めて体験するものだったし、とにかく得体の知れないものだった。そして大きかった。
地震が起こった日の朝のことは覚えているが、その後の記憶はない。どうやって復旧していったのかも覚えていない。気がつけば近所に仮設住宅が建っていた。
私は自分が生まれ育った地域のことをよく知らない。よその人にどんな所か聞かれても上手く説明は出来ないだろう。阪神淡路大震災にしてもそうだ。どこでどれだけの被害があり、どのように立ち直ってきたのか…分かっていない。
もっと自分自身のこと、自分が生まれた地域、国のこと、知らなければ。